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アルレッキーノ、ブリゲッラ、パンタローネ、プルチネッラ、コロンビーナ・・・。
イタリアの町にはその町の第二の顔ともいえるキャラクターが存在する。彼らは1600年〜1700年代、イタリアの路上で演じられてきた大衆演劇の主人公で、後にその町を象徴するシンボルになったものだ。
ちなみにトリノの顔は酒飲みで陽気な美食家、ジャンドゥイヤ。
彼の誕生の秘密を追ってみよう。

という書き出しでアップしたのがおよそ2ヶ月前のこと。しかし1月も後半を迎え、カーニバルの時期が近くなった今日、新たにジャンドウイヤについて語っているその道の大家のインタビューを目にした。そして、前回の「研究」でかすかに感じていた疑問を、見事明かしてくれたのだ!(といっても私が勝手に読んで納得しただけです)

大家とは、ピエモンテ協会(Associassion Piemonteisa)会長のアンドレア・フラミーニ氏と、ファミリア・トゥリネジア(Famiglia Turineisa)代表のアルド・ロケッティ・マルク氏の2人。
ジャンドゥイヤにはかなりこだわりのある両氏。インタビュー記事から得た情報を交えた改訂版でお楽しみ下さい。

■諸説あります、ジャンドゥイヤ生誕時期&場所
ああ、こまった。探せば探すほど、いろいろな説が出てくるジャンドゥイヤ誕生のストーリー。もちろん、昔々のこと、しかも伝説的なハナシが多いため、いろいろな要素が交錯して幾通りもの説になっているのは分かるのだが・・・。
とにかく、その諸説を紹介して行こう。
時は1700年代後半から1800年代初頭。当時爆発的な人気を誇った、人形劇の人形だったジャンドゥイヤ。生誕の地はアスティ県の小さな町カリアネット、もしくはカステルアルフェーロとされている。
人形を作った作者にも諸説ある。ジョアニオン・ドセイGioanion d'oseiという建具職人の手によって誕生するというものもあれば、トリノ生まれのサレスとラコニージ生まれのベッローネという人形遣いの作品として1798年に誕生したとも言われる。年代が前後し、1808年説もあり同職人等の手によりカステルアルフェーロの田舎の小屋で作られた、とも言われる。この小屋(Ciabot)はカリアネット近郊にCiabot 'd Giandujaと呼ばれて現存するのだが、チョコレート会社カッファレルが所有した後市に寄贈され、その後はあばら家同然、保存運動が起きているらしい。ちなみにこの小屋と同名のレストラン*もあり、郷土スポーツとでも言うべきタンブレッロの優勝記念などに宴会場として使われたり、市の観光局を兼ねたりと、中心的な役割も果たしているようだ。ちなみにメニューもなかなかおいしそうで・・・と、あんまり脱線しても後が長いので、これはまた今度。

■誕生にまつわるエピソードは・・・?
さて、今度はそのストーリーのなかでも魅力的な名前の変遷だ。
前回紹介したのはピエモンテ方言でジェローニモを意味するジローニという名を持ったこの人形が、最初はジェノバで人気を博すもジェノバ総督と同じ名前だったため、名前に難あり、ということでピエモンテに逃げた。しかしピエモンテは当時ナポレオン政権下。しかも辺りを治めていたのがナポレオンの兄、末息子の名前がジェローム(イタリア語でジェローラモ)で、またこの名前がよくない、と名前を変え、ジャンドゥイヤに落ち着いた、ということだった。
ジャンドゥイヤの名前のモデルは、人形師がカリアネットでであった一人の農夫、ジョアン・ドゥラ・ドウヤ(Gioan d' la douja)。Doujaはピエモンテ方言でジョッキのこと。さしずめ「ジョッキのジョアン」といったところで、酒場に行っては必ず美味い酒を注文せずにいられないという酒好きな男だったらしい。トレードマークは赤い縁取りの茶色の服、黄色のチョッキ、赤い靴下に黒い靴を履き、胸に緑のリボンを結び、おなじ緑色の傘・・・。この辺りの名前の変遷は、一難さって、また一難と言うコメディー風のストーリーでいかにも伝説的。私は結構好きなのだが・・・。

しかし、ピエ協(すみません、勝手に略して)のフラミーニ氏はインタビューでこう説明していた。ナポレオン政権下の当時、政治批判や風刺をする人形劇が民衆の間で非常にはやっていた。帝国は古代ローマ帝国の例に倣い、その地を問題なく治めることが出来るのならと、民衆の文化を尊重し、こうした風刺劇も大目に見ていた。そこへ登場したのが例の人形、ジローニだ。兄(ここでは兄の名をジェロームとしている)の威信を守るため、ナポレオンはやむなくこうした劇の検閲を行い、廃止に追い込んだ。しかし廃止になっても、その反骨精神を称える意味でピエモンテのシンボルとなった、と言うのだ。・・・ウン、なるほど。特にフランス人に支配されるなんてイタリア人には屈辱だろうから、こうした風刺劇の存在も、かなり信憑性高い・・・。
一方、ファミリア(また、すみません)のロケッティ・マルク氏は、1808年にアスティ県カステルアルフェーロで人形として誕生した、と、いたって簡潔。しかし、逸話は欠かせないようで「ドーラグロッサ通り(現在のガリバルディ通り)を王様が通った時のこと。人々はみな跪き、王様に様々な贈り物を献上していた。そしてジャンドゥイヤの番が来たのだが、他に何もなかった彼は、着ていたコートを脱いでそれを渡し、シャツ一枚で寒さに耐えたと言う。彼のもつ寛大さをよく表した伝説です」と、語る。
なんだかここまで来ると、どれも面白いからどっちでもいいかなーと言う気がしないでもないが、事実、両氏とも違うレベルで目的を同じく活動する同士として、ジャンドゥイヤが2人いたっていいじゃないか、と歩み寄る。

■昔カーニバルの主役、今はピエモンテ人の矜持。
昔、カーニバルと言えば無礼講をも意味する楽しい祭りのこと。楽しく騒ぐ場の盛り上げ役として、山車にのった彼等町のシンボルがもてはやされていた。しかし今は有名なベネツィアのカーニバルのように仮装をするのが中心で、しかも主役は子供達。仮装の様子も日本やアメリカのアニメのキャラクターに取って代わられるなど、様変わりしている。ジャンドゥイヤはどちらかと言えば今やチョコレートの名前として親しみが深い。
前出のフラミーニ氏によれば、現在はこうしたお祭り時に病院や養護施設などにジャンドゥイヤが出向き、場を盛り上げると言う。慈善事業的な発想はいかにもキリスト教国らしい考えだ。

■ピエモンテ文化を守る2つの組織
現在は、ピエモンテ文化を象徴するものとしてジャンドゥイヤは大いに活躍をしているわけだが、両氏の所属する組織を少しだけ紹介しよう。
ピエモンテ協会は1957年に創立。創立者はもちろんフラミーニ氏だ。ピエモンテの伝統文化を研究、伝承することを目的に、講演会、写真展、フードフェアなどを主催。ピエモンテ関連の文献1万冊を蔵書する図書館を持ち、小中学校で授業も行う。果ては南米アルゼンチンにピエモンテ文化の学校を建設してしまったと言うからすごい・・・。フラミーニ氏扮するジャンドゥイヤとその伴侶ジャコメッタが主人公の劇を主催し、世界中で上演している。
一方ファミリア・トゥリネジアは1925年創立と古い。その2年前より機関紙「'l caval 'd brons」を月刊で発行。大戦終了後から活動を再開し、ピエモンテ伝統文化の継承に尽力している。カーニバルの時期だけでなく、年間を通して施設などで活動を行う。
組織こそ違え、目的は同じ。ピエモンテ人の自文化への矜持とこだわりの強さが伺える。そういえば昨今流行のスローフードも、ピエモンテ発祥。今も形を変えながら「地元」にこだわり続けるピエモンテ、なんですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考サイト:
フラミーニ氏&ロケッティ氏インタビュー記事
カステルアルフェロ市サイト

*Ristorante Ciabot 'd Gianduja
Via Lasca, 10/12
Callianetto Asti
Tel. 0141/29.81.13

ラードと生ハムのトリュフ添え、ファッソーネ牛とトリュフのたたき、カルドのフランに溶かしチーズとトリュフ添え、ペペローニのバーニャカウダなどの前菜。白トリュフのタリオリーニなどパスタ類。牛肉のローストにポルチーニ茸と季節の野菜を添えて・・・などメニューを見ていると、うーん、かなりおいしそう。バルベーラやグリニョリーノ、ドルチェット・ダルバなどワインも一緒で一人40ユーロだそうです。ピエモンテ料理の用語解説もあわせてどうぞ。

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