ホーム>トリノ研究> 聖骸布のナゾ

MAIL  
 掲示バン

サイトマップ

トリノ研究
 ジャンドゥイヤ
 チョコレート
 映画
 グリッシーニ
 「トリノ」
聖骸布のナゾ
 欧州一
 不思議ケンチク
 ユベントス
 ブジャネン
 地元番組Ciau bale

manGia!!
留学&就職
トリノ便利庁
旅と写真

Turismo
-トリノ基本情報
-見所と催し
-トリノ八景
Albergo
-ホテル
-レジデンス&ユース
Ristorante+
-リストランテ
-カフェテリア
-専門店


トリノの聖骸布は世界的にも有名なナゾの聖遺物だ。
大きさ437センチx111センチの麻布に、キリストと思しき磔刑に処された男性の全身像が写真のネガ状に鮮明に映っているもので、トリノの王宮左手ドゥオーモ内に納められている。2000年の聖年には一般公開され、世界中から信者が集まった。

この布はどこから来て、どうしてトリノへ辿り着いたのか?本当にキリストの体を包んでいたのか?
東はエルサレムからフランス、英国の古城にわたるまでの広大な地域にまたがる何世紀もの歴史を旅してみよう。

■聖骸布の起源・・・エデッサのマンディリオン
もともとヘブライ人の経帷子を意味するシンドネ(聖骸布)の存在は、西暦33年にエルサレムですでに確認されていた。544年にはエデッサという町で「折りたたまれたシンドネ」が確認されておりエデッサのマンディリオンとして有名になっていた。
当時はビザンチン勢力との争いが激しく、ビザンチン軍の侵入によりエデッサのマンディリオンは944年、コスタンティノープルへ逃れることとなる。ところが、戦火を逃れてコンスタンティノープルまでやってきたものの、やはりその後の戦で所在が分からなくなり、1204年以降なんと約1世紀以上もはっきりとした消息がつかめなくなってしまう。

■百年の空白・・・渦中の人ゴッフレッド総長
1世紀の空白は大きい。
もちろん仮説がいろいろな学者によって立てられた。1205年にはギリシャのアテネに存在したと言う文書や、1204年から1253年まではフェデリコ一世の下、イタリアのコゼンツァに保管されていたとする説があるが、最も自然な感じがするのはフランス北西部ノルマンディーのテンプル騎士団総長ゴッフレッド・ディ・シャルネイ関連説だ。
いきなりテンプル騎士団、といっても何事かと思われるかもしれないが、戦う聖職者として有名だったテンプル騎士団。彼らは当時十字軍に参加し、東方へは何度も赴いている。その彼らの誰かがコスタンティノープルの聖骸布を持ち帰ったのではないか、というのだ。
なかでもゴッフレッドが特に注目されるのは、その名前と、妻の家系からだ。
1世紀後に聖骸布が見つかるのはリレーというフランス北部の町なのだが、ここに同じゴッフレッドという名前の重要人物がいる。しかし、研究が進められるうちに親戚などではないことが分かっている。
最近支持されているのは、ゴッフレッドの妻の親戚関係から聖骸布が手に渡ったのではないかという説。妻のジョヴァンナ・ディ・ヴェルジーの家系には初のアテネ侯爵となるオットーネ・ラ・ロッシュがおり、1204年のアテネに聖骸布が存在したとする文書と繋がってくると言うものだ。
一方英国テンプル騎士団経由だとするモリー・ドリューの説(1945年)も捨てがたい。ロンドンからはるか西のトーントンという町近郊にテンプルコンベという町があるが、このテンプル騎士団の城に、聖骸布の男性にそっくりな男性の顔を描いた宗教画が現在も残っている。しかも、この後ろには鍵がかかる小さな礼拝堂があり、ここに聖骸布を、祀っていたのではないか、と言われている。その後、城の存在が危なくなった際、聖骸布を救うために騎士団の一人が(特にブリエンネのゴティエ4世ではないかとされている)信頼のおけるゴッフレッドに託してフランスに逃した・・・というのだが、もちろんどれも立証されるにはいたっていない。
ところで、テンプルコンベのサイトで、その男性の顔を描いた絵の写真を見たのだが、聖骸布の顔と同じだ、と言う印象を強く受けた。個人的には英国騎士団経由の説を押したいのだが、なんとサイトでは「トリノの聖骸布とは違い、目と口をあけており、しかも顔だけの肖像で、もともとはその他多くの騎士らの肖像と一緒に飾ってあったものではないか」と力説。一緒にして欲しくないのかも・・・。

■聖骸布のフランス時代
とにもかくにも聖骸布が再び確認されるのは1353年、フランスのリレー(lirey)にて。ゴッフレッドが死去した1453年、娘のマルゲリータによりサボイア家に献上され、サボイア家は聖骸布を現在のスイス国境近くのシャンベリーへ移し、同家の礼拝堂に保管されることになる。75センチx30センチの大きさに折りたたまれ、銀の聖櫃に納められた聖骸布は終に安住の地に辿り着いたかのように見えた。が、1532年12月4日未明の火災ではあわや消失の危機に見舞われる。高温に熱された聖櫃の中で折りたたまれた布の四隅が焼ける損害をこうむるが、クラリス会修道女の手により2年間かけて継ぎあての修繕がなされた。(しかし、継ぎあてられた布も変色と傷みがが激しく、2002年の修復作業によって取り除かれている。)
ところで、サヴォイア家の本拠地はトリノ。あの聖骸布をなんとかこちらに移せないか、と画策する人物がいた・・・。

■終にトリノへ・・・そして2度目の火災
画策していたのはエマヌエレ・フィリベルト。10月にはミラノの大司教カルロ・ボッロメオが徒歩で聖骸布の巡礼にやってくるのだが、シャンベリーまではいかにも遠すぎる、一時的にトリノに移すのはどうだろうか・・・。こう提案してトリノへ移すことにまんまと成功。抜け目のない人物だ。
トリノはその後仏軍の侵入にあうが、仏軍がどんなに聖櫃のなかを探してもみあたらず、仏軍が退散した後、またもとの場所に収まっていた、などといった奇跡を数多く残し、その後も仏軍の侵入の際には今に至っている。1997年4月の火災(原因は未だ不明)のときも、トリノの消防士等の手によって奇跡的に救い出された。そう、1578年に「一時的」に移されてから、かれこれ400年以上。聖骸布は今もトリノのドゥオーモに納められたままだ。

■聖骸布の実際・・・1988年のC14ショック
歴史に翻弄され、2000年の時を奇跡的に生き残ってきた聖骸布。
しかし、科学的には一体どういう検証がなされてきたのだろうか。本当にキリストのなきがらを包んでいたのだろうか。
1986年〜1988年、聖骸布の組織が世界中の研究機関に配られ、調査が依頼された。そして、そのなかの炭素14が決定的な証拠となり、聖骸布は中世の頃のもの、ということが判明したのだ。
しかし、落胆するのはキリスト教徒でなくともまだ早い。
中世の布を使って人為的に作られたものだとすると、更に腑に落ちない点が浮かび上がってくるというのだ。
一つは、写真に利用されるネガの方法で布に焼き付けられた人型をどう説明するのかということだ。写真が発明されたのはその後600年ほどあとのこと。どうしてこの方法を当時の人たちが知っていたのか、というナゾが残る。
また、男性の瞼に置かれていた西暦33年ごろの硬貨をどう説明するのか。硬貨研究の歴史を紐といても発掘されているのは1850年ごろで、中世の当時まだ発見に至っていなかったはずだと言う。

さらに、布に包まれていた男性にもなぞが多い。
様々な研究の結果、実際に磔刑に処されて死亡したAB型の血液を持つ男性だと言うことが分かっている。また、筋肉の反応や神経の流れなどから実際の人体をくるんでいたものだとされている。例えば、両手の親指が見えないのは、磔刑に処された人体に必ず見られる反応で、手首(一般に考えられているように手のひらではないとか。手のひらでは体重が支えられないらしい)に打ち込む楔が神経を切断し、親指が手のひら側へ深く折り込まれたような感じになるためだという。ちなみに、磔刑に使われた十字架の種類も、ローマ人の使っていた種類であることが分かっている。
さらに、この男性の頭には、キリストがかぶらされたと言われるものと同じ荊の冠が本当にかぶせられており、また研究家ウゴレッティにより、左眉の上に「NAZARENU」という謎の文字が刻まれていることが発見されている。

男性が誰だったのか、中世の布はどこでどのように聖骸布となったのか・・・文字通りナゾがナゾを呼ぶ不思議な布、聖骸布。
それ自体をもってキリストの奇跡だとするのもまた悪くないのかもしれない。

 

 

 

参考資料:
"Storia insolita di Torino"
Renzo Rosotti

聖骸布公式サイト

カトリック教会聖骸布関連サイト

テンプルコンベ城サイト

シンドネ(聖骸布)博物館
www.sindone.it
via s. Agostino, 28
Tel.011-4365832

開館時間:9:00-12:00
15:00-19:00



日本語の関連書籍


イエス・キリスト聖骸布の陰謀


イエスのDNA



トリノの聖骸布

© 2001-2003 無断転載を禁止します。