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紀元前にはカルタゴの名将ハンニバルが最初に行きついたイタリアの集落。その後サヴォイア公国、サルデニア王国の都、そして1861年にはイタリア王国最初の首都となったトリノ。
「トリノ」の名称の起源や、町にまつわる神話、逸話を含めて町としての起源を研究してみよう。

■川のあるところ集落あり、の紀元前のTaurini
ポー川、ドーラ川などに囲まれ肥沃な平野の広がる現在のトリノ地域。川のあるところ集落あり、という世界中の歴史の原則に倣い、ここにもケルト-リグーリア系の民族が集落をなしていた。
彼らは「Taurini」と呼ばれており、当時トリノを含めヨーロッパに住み着いていた民族が使用していた、アラム語あるいはケルト語で「山がちな場所」を意味する「Taur」、「Thor」に由来するといわれている。他にオーストリアのニーデル・タウエルン(Niedere tauern)山脈など、山、連山としてTaurThorの面影が残っているところがある。
一方、俗に言われているトリノのシンボルToro(雄牛)がTORINOに由来するとする説は、本来はあまり関係ないらしい。(ちなみにToroが市のシンボルとして公式文書などに使用され始めたのは1330年ごろだと言う。)
さて、そのTauriniたちが恩恵にあずかっていたポー川だが、これにまつわるギリシャ神話が一つある。神話なんて関係ないじゃん・・・とおっしゃるなかれ。太陽神エリオの馬車を駆る息子のパエトンのストーリーは昔からイタリアの芸術家達をインスパイアしてきたものなのだ。太陽神の息子パエトンは父に黙って炎の馬車を操り、天に昇ろうと企んでいた。しかし操作を誤り下界に馬車ごと墜落してしまいそうになる。これを見た全能の神ゼウスは下界での惨事を防ぐため手を差し伸べ、エリダノス川に馬車を墜落させた、と言う。で、そのエリダノス川というのがポー川だというのだ。エリダノス川というのは神話の中では大洋神オケアノスとテテュスの子供!というから、神話とはまことに奇妙なものだが、炎に包まれる馬車が天からポー川に落ちていく、というのはなかなか神秘的なイメージだ。

■象のアルプス越え・・・ハンニバル襲来
さて、神話のハナシから史実に目を移そう。
時は紀元前218年・・・と言っても教科書的な印象しか受けない遠い昔。実際「ローマ帝国が勢いを強め、その間フェニキア人植民地のカルタゴに3度侵入を受けるが(ポエニ戦争)打ち破り、更に勢力を拡大していった」と言うような記述が教科書にもあったのを世界史をとっていた人ならかすかに覚えているだろう。世界史の先生が「カルタゴの名将といわれたハンニバルが軍を率い、象を伴ってアルプス越えをしたんだ」なんて小バナシも披露していたはずだ。
実際、その紀元前218年には2度目の戦いでハンニバルがアルプス越えを果たし、現在のトリノの辺りにやってきている。

さて、Taurini=高地に住む人々の集落は、やっと町としての形を成してきたという状態で、農業、放牧を中心に日々を過ごしていた。一方何千と言う兵を率い、象まで山越えをさせたハンニバル軍。なんなく圧制できると見限っていたハンニバルだが思いもよらない反撃を受け、3日間の激しい交戦となった。もちろん、最終的にはハンニバル軍がTauriniの集落を焼き払い圧制。人々は家畜を連れて山へ逃げのびた。

■ローマ帝国時代
そのハンニバルも大スキピオに圧制され、ローマ帝国の発展は続く。紀元前28年にはアウグスト帝によりローマから現在のトリノへ3000人が入植し、Julia Augusta Taurinorumという植民地となる。町を囲う壁は2875m。面積およそ45ヘクタールというイタリア国内では中の下くらいの規模であった。現在もトリノには未だにローマ帝国時代の遺跡が残っており、有名なものではドゥオーモ近くのポルタ・パラティーナ(当時四つあった門のうち現存する唯一の門)、またコンソラート広場の教会脇に残る遺跡などがある。当時の壁も、コンソラート通りからチェルナイア通り、チェルナイア通りからサンタテレザ通り、マリア・ヴィットリア通り、そしてパラッツォ・アカデミアからカステッロ広場、王宮庭園の辺りにどれも700メートル前後残っている。その他王宮脇にはローマ帝国時代の劇場跡が発掘されており、現在修復作業が行われている。ローマまで行かなくても、ローマ時代の面影が至る所で見受けられるのもトリノの小さな楽しみだ。ただ、あるべき手段を講じていない、とする声もある。寂れたポルタパラティーナを囲む柵脇に説明文が掲げられているが、錆びて判読不可能。余白にマジックで書き付けられた「トリノ市はするべきPRを怠っている」との批判が印象的だった。

■都としての発展
さて。TauriniJulia Augusta Taurinorumと、トリノという町の名前の由来が大体こんなところから来ているのは分かった。また、近郊の町にはグルリアスコ、ピオッサスコなどscoで終る町が多いが、これはtauriniが属したリグーリア系言語に由来し、一方アリエ、クルニェなど最後にアクセントを置き母音で終る町の名前はケルト語に由来するものだと言う。こういう名前の町が多いな、とは思っていたけれど、紀元前までにさかのぼる話しだとは・・・。
さて、ローマ帝国没落後は、サヴォイア家の治める公国ができ、その後サルデニア王国に昇格、華々しい文化の都となったのはよく知られている。そして、1861年にはイタリア統一後初の首都となる。3年後にフィレンツェに移りその後ローマに遷都され今に至るが、近代イタリア史については別にまた後ほど紹介予定なのでどうぞご期待を。

 

 

 

参考文献:
"Storia insolita di Torino"
Renzo Rosotti

 

 

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